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 今から10年前、私は実用書の専門版元に所属していました。当時、私の上司はKさんという人でした。役職は編集長です。

 Kさんはとても仕事のできる方でした。10人にも満たない小さな編集部だったこともあってか、Kさんの本だけで、会社全体の20%ぐらいの売上は出ていたと思います。

 編集部が修羅場でギスギスしていても、「〇〇のバームクーヘン買ってきたよ。みんなで食べよう」と、場を和ませることができる人でした。

 私が電話の対応でミスし、Kさんの大切な著者を怒らせたときも、「中村ぁ、これは出世払いで返してもらうしかないなー」と、笑い飛ばすような人でした。

 幸運にも私は、そんな素晴らしい編集者のもとで学ぶことができたのです。

 Kさんの部下として働き始め、半年が経ち、私は自分の担当書籍を出すことができました。自分で企画し、自分で原稿整理し、自分でタイトル・カバーを決めた本です。

 本ができ上がり、私は喜び勇んでKさんのもとに行きました。

「本、できました! Kさん、ありがとうございます!」
「おお、そうか。初めての本だもんな。お疲れ様。ちょっと見せて」

 そして私は本を渡しました。晴れやかな気持ちで。
 それから5分後のことです。

「ちょっときて」
 Kさんに声をかけられました。

「なんだろう。もしかしたら、褒められるのかな」。
 そんな呑気な気持ちで、私はKさんのデスクに向かいました。

 Kさんは明らかに怒っていました。Kさんの第一声は今でもよく覚えています。

「なんで『はじめに』の表記が揺れてるの? ちゃんと校正した? 仕事、なめてんの?」

 本を作るときには、「表記統一表」というものを作ります。イメージ的には、

○ 作る
× つくる

 という感じで、「漢字で書くか、ひらがなにするか」の基準を決めるわけです。こうした表記の統一は編集者の基本スキルであり、最初に教わります。Kさんが指摘したのは「はじめに」の中の表記揺れです。見開きの中に、「わかる」と「分かる」が混在していたのです。

「そんなに怒らなくてもいいんじゃないか」という戸惑い。
「なんでこんな小さなことで、ここまで怒られるの?」という怒り。
「あのKさんに怒られてしまった」という悲しみ。

 こうした気持ちが混じって、私は何も考えられず、反射的に「はい、すいませんでした」と言うだけで精一杯でした。それから1週間ほど、私はKさんと一切口をききませんでした。業務上必要なことはすべてメールで済ませた記憶があります。

 10年の月日が経ちました。今なら、Kさんの気持ちが少しわかります。仮に今、私がKさんと同じ立場に置かれたら、きっと注意するでしょう。

「もう同じ失敗をしてほしくない」
「編集者としてのスキルを、今のうちにしっかり身につけてほしい」
「この機会に、校正の重要性を理解してほしい」

 こうした思いからです。しかし、Kさんのように体重を乗せられる自信はありません。

 あと6年で、私も当時のKさんと同じ年齢になります。私もKさんのように真摯に人と向き合えるようになるのでしょうか。まだイメージがわきません。しかし時間はどんどん過ぎていきます。「今の自分でいい」と慢心することなく、日々精進するしかありません。